生きとし生けるものたち  その1

沙羅双樹(さらそうじゅ)の木

 

沙羅は、私の背丈の半分ほどの若木だった。

母がまだ元気で九〇歳くらいのころ、帯広郊外にある園芸店で、それぞれに買い求めた想い出の樹である。

毎年六月過ぎに丸い実が膨らんで、大きくなり、涼しい白い花をつけ始める。来る朝ごとに花が増えてゆく。まるで蝋燭(ろうそく)の火を次々に移していくようなほのかな明るさがした。沙羅双樹という名前からして、気品のある樹だと思って、すっかり惚れ込んでしまった。

それが、何故か元気がない。毎年咲いていた白い花が咲かない。木肌全体に黒いカビのようなものが張りついているし、葉につやもない。

「この樹は、人間でいえば癌にかかっているから、悪いところは、切らねば助からない」といって枝をばっさりと切ったのは、懇意にしている植木屋さんである。彼の見立てなら、間違いないだろう。樹でも癌にかかるのだと、納得した。

沙羅の木は、釈尊がインドのクシナガラで八〇歳で入滅した場所に生えていたとされている。それを知ってから、尚更に愛しくなり、何とか、生きて欲しいものと、願いをこめて眺めている。

枝が切られ、ほとんど幹だけになり、みるからに痛々しく、これで、厳しい冬を乗り越えられるとは思わなかった。

植えてあるところが裏の狭庭で、屋根からの落雪がまともにぶつかる。

「大丈夫、沙羅の木は強い木だから」と植木屋は慰めてくれたが、半信半疑だった。

翌年、万物が芽吹く頃になっても、いっこうに新芽が芽吹く気配もなく、やっぱりだめだったと、あきらめていた矢先のこと、幹の一番下の脇から小さな葉が一枚、恥ずかしげに、顔を出したのである。次々に、上に向かって若葉がふえ、風にそよぐように淡い緑から緑がだんだん濃くなって、まるで音楽を奏でるように、伸び出した。

沙羅の木は生き返ったのである。

私は、若葉の奏でる美しい曲を確かに聴く事ができた。

植物には、人間の足音が何の肥料よりいい肥やしだと聞いた言葉の意味がふと、分る気がする。

伸び出したら早い。勢いをまして、青い実のようなつぼみがひとつ、ふたつ、ふくらみ始めた。

今まで沙羅の花の咲くときを見てはいない。静かに密やかに、花弁を開き、知らないうちにぽとりと地面に落ちて、初めて自己主張するような花だった。

今年こそは、ほのかに花を咲かせるその時を見届けてやりたいと念じている。

 

母は昨年、白寿を全うして、ご浄土に還っていった。

その母と入れ替わるように、夫が思いがけない病を知らされ、手術し現在も療養中である。だが、術後による後遺症で声が出なくなった。手術は成功したものの、引き替えに声を失ったのである。

この夏の検査でも、どうやら再発もせず、生かされている。

癌になった沙羅も、夫と一緒に病んで戦い、ついに生き還り、因縁めいたものを感じる。

沙羅の木がよみがえったように、夫も元通りとは、いわずとも、現状を維持してくれれば、それでいい。決して多くは望まないのだと、願い続けているこの頃である。

夫は寺の三男坊として隣町に生まれた。生家は浄土真宗本願寺派の寺で、平成一五年に開教100年慶讃法要をおこなった。現在、甥子の子が、二八歳の若さで、五代目の住職を務めている。彼は、高校三年卒業式前日に、当時四十九歳だった父親を亡くしている。なんとも早すぎる別れに、檀徒一同が寺の将来を案じて悲嘆にくれたものだ。

夫と連れ添い五〇年、半世紀を超えた。寺族に嫁いだ宿命もあり、報恩講や月の常例には、努めて聴聞にでかけるようにしている。特に年一度行われる報恩講では、本堂の内陣で、総勢十名ほどの老若の僧侶たちの読経に合わせ、門徒衆に混じりお経を唱和する。

~きみょーむりょーじゅにょらい、なーむふーかーしーぎーこー、~と正信偈(しょうしんげ)がはじまると、まるで、美しい歌声を聞いているような気がして、懐かしく心が落ち着くのである。。

寺の天井は高く、お経の声が低く響き、周囲の壁に吸収されてゆく。厳かで、荘厳な時間が続く。

釈尊が出家を志されたのも、人が老い、人が普段は病にかかり、人が死ぬと言う現実に悩みを覚えたからと、伝えられている。

結局、人間は、生まれるのも死ぬのも自分の意思でではなく、何らかのはからいに頼らねばならないという。

続く

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