◇昭和編◇
父は二度戦争に行っている。
一度目は、昭和一二年。父二三歳、六人兄弟の末っ子である。母と結婚したものの、わずかひと月足らずで、赤紙(召集令状)がきて、六年も満州(中国東北部)の戦地にいたと聞かされた。残された母(二二歳)は実家にも帰らず、義父母に仕え婚家を守ったという。
父の兄弟で兵隊検査に甲種合格し,お国のために奉公できたのは、父だけだったという。そのことが、祖母の何よりの誇りであり、深い悲しみでもあった。
特に二度目の召集は,終戦間近で、配属先は、激戦地となっている沖縄だった。わずか二年で再び召集されたのだ。そのとき母は、二人の幼子を抱え、戦地に父を見送ったのである。特に妹は、生まれて半年の乳飲み子だった。
敗戦の色濃い中の出兵とあって、祖母は、とにかく無事で帰ってと、毎日、仏壇に手を合わせ続けた。私も「なんなさん(阿弥陀様)にお詣りを」と、何も解らぬまま、真似したという。
今でも実家に古いアルバムがしまってある。戦地で衛生兵だった父。白衣を着て、足にゲートルを巻き、注射針を持ち傷病兵と一緒のところを撮した写真である。もう表面がひび割れてはいたが、父の姿は、凜々しく、消毒薬のにおいが漂ってくるような一枚だった。
父は,普段から寡黙なひとだった。その父から聞いた戦争のはなしの一部は、記憶の底に、黒く焼き付いて離れない。
前線の野営地で治療をしていると、怪我したシナ人から、「薬が欲しい。」と懇願されるも、聞いてやることはできなかった。また、現地で兵隊が悪事の限りを尽くしたこと。民家の豚や鶏を襲い略奪、食料に変えたこと。畑に植えてあるトウキビやカボチャ,食べられるものは、みんな分捕った。軍隊では、普段の良識が通用しない、狂気の世界で、自分が撃たなければ、やられる。それが戦争なのだという。父は、宮崎の青島で沖縄に向けて待機中終戦を迎えた。列車に乗って、ふるさとの駅に降り立ったのは、その年の九月だった。目前に、十勝川が広がっていた。橋を渡れば、遠回りになるというので、川を泳いで渡って帰ってきたという。「電報の一本も打ってくれれば、赤飯を炊いて待っていたのに」と祖母が顔をくしゃくしゃにして、父の胸を叩いたという。父は、奇しくも昭和の終わる年になくなった。
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