和平さんからの贈りもの(2)

《前号のあらすじ》

「稚内は風のマチ」と評した人気作家・立松和平さんが、講演のため稚内を訪れたことがあった。当時、超多忙な和平さんを囲んでの座談会では、浜頓別と稚内の白鳥おじさん、大沼白鳥の会メンバーが集合、自然談義はつきることがなかった。しかし、あれから幾年・・。時はたちまち無情にも流れゆき、山内白鳥おじさんが先に召され、後を追うように和平さんも冥界へと旅立っていったのである。特に和平先生は享年62歳の若さだった。(1947~2010年2月8日没)

 

貧しいロシアと北朝鮮

立松=私もこの4月に北京から北朝鮮に行ってきたんですよ。だけれど、頼んでいた中国人ガイドが国境を出られず、結局わたしひとりでした。

座談会

ちょうど田植えの時期で全員田んぼに入って手植えだったね。その光景が、日本の昔の農村風景に似ていて、すこぶる美しかったので、『ちょっと車を止めて撮影したい』といったんだが、『すまないが、ゆっくり走るから車のなかから写してくれ』と言われてしまった。田植えしている周りには、機械なども見当たらず、やはり北朝鮮も貧しい国に見えたですね。

山内=このたび故郷のサハリン・コルサコフで聞いてきた話しなんだけれど、一般国民は、ブタを飼っていても、皮とか脂身しか食えない。ひと月の年金(※当時)で買えるのは、ビール一ダースにバター2本。だから白鳥や、野鳥でも大切な食糧なんだと。

(注・日本でも明治に入り、銃器によって乱獲されるようになって、各地でハクチョウやガンなどが、絶滅寸前となったことがある。ガンが国の天然記念物にしてされたのが、1971年、それ以後日本では狩猟が禁止されている。)

それでね、自分が名前をつけた白鳥が戻ってきたときの感激は忘れられない。標識をつけたやつが、向こう(サハリンなど)でムコさんみつけ、その子どもをつれて戻ってくるのがいて、「おー、来たな」という感じで、自分の子どもといっしょですよ。

なかにはネクタイ下げてくる白鳥がいて。(注・カメラの部品のゴム)コカコーラの缶を下げていたり。皆面白半分でやっている。本州では虎バサミをつけたのやら。一番多いのが釣り針で、釣り人のマナーが問われるね。

ごみ処分場をあさる野鳥たち

山内=わたしはね、渡ってきた白鳥の顔がわかるんですよ。これは新潟とか、伊豆沼とか。羽根の汚れ具合で、わかるね。宮城の伊豆沼のは、灰色がかっているし、むかし石油を産出しているところからきたヤツは、鉄さび色しているし。長年世話していると、産地がわかる。つまり、戸籍みたいなもんだね。それでね、道東の羅臼でスケソウが不漁だと、天然記念物で絶滅危惧種のオジロワシや危急種のオオワシがこちらの浜頓別まで渡ってくる。魚が獲れないと、野鳥たちも餌があたらない。昔はトラックからこぼれたスケソウなどで腹いっぱいになっていたけれど、今はこぼれたら全部ひろうでしょ。給餌に反対意見もあるが、魚が豊富なときは、気がつかないうちに皆が給餌していたんですよ。ところが不漁だと餌不足でやつらはごみ捨て場をあさりはじめる。大ワシも、重金属をゴミと一緒に食ってしまうし、白鳥なら何でも平気で、ビニールも一緒に。それで2,3日もたてば青い汁吐いて死んでしまう。鉛を飲んだやつは、青い泡ふいて美唄の『宮島病』に罹っている。(これは私が勝手につけた病名なんだがね)中には、栄養過多などもある。餌がないと、家畜の糞尿に含まれる残りも食べるから。

立松=そうね。ウトナイ湖の白鳥はスナック菓子の食べすぎでね。生きる範囲が狭まれているんですね。それだけ野生生物が生きづらいんだ。

吉田=日本では、どこでも『おれのところの白鳥だ』といって、競って世話しているけど、国境超えたら、みな人間の餌になってしまっている。

立松=ほんと、泣けてしまうね。

山内=それに今、ごみ処理の問題が出てきている。こちらではまだないが、本州の猪苗代湖周辺では、ごみ焼却炉から出る煙で、あたりに靄がかかって、30羽がやられたことがある。

稚内ごみ処分場問題 

北辰ダム2  稚内市大字声問村字上声問 北辰ダム

 

庄崎=実は和平先生、稚内に首都圏からのゴミ(焼却灰)を持ってきて、埋め立てる計画が持ち上がっているんです。そこの場所が稚内市民の水がめ、「北辰ダム」の傍の丘陵地なんですよ。(注・北辰ダム・稚内市大字声問村字上声問)声問川水系タツニシュナイ川を水源とする、日本最北端に位置する飲用水ダム)。かっては、稚内大沼から取水していたのだが、カビ臭がひどく、現在の北辰ダムが建設されている。

立松=それはひどいなーあ。そこで、肝心の行政ではなんといっているの。

庄崎=今のところ、模様眺めです。人口の少ない遠別町も狙われたけれど道が許可しなかったし、釧路の問題は、業者が裁判を起こしている段階です。

稚内をターゲットにしているのは、道南のS工業で、業者は予定地の地権者との売買仮契約までこぎつけ、地元民の同意書を取ろうと必死にアピールしているけど。行政側としては、最終申請書に不備がなければ、認可せざるを得ないという状況で、「実は瀬戸際なんです」処分場反対集会が、沼川会館で行われるという。建設反対側の取材依頼を受け、現地に向かった。普段は静かな酪農畑作地帯に、降ってわいたような騒動が持ち上がったのである。

かって、稚内の「ネイチャーラブ最北」に在会し、会の一員として植樹をしたことがある。自然を愛する団体だった。シーズンともなれば、坂の下海水浴場のごみ拾いに精をだし、沼川では、どんぐりの木を何本も植えた。沼川は市街地より奥にあった。自分が植えた、か細い苗木が北辺でちゃんと根を生やしているか、見届ける良い機会だと思い、太陽の高いうちにでかけた。会場には、日焼けした地元農民たちが頭に手ぬぐいをまき、腕に腕章を撒いた地元紙や中央紙の記者もすでに到着していた。埋め立ての焼却灰が風向きによって、ダム湖に舞い落ちる可能性や、風評被害で、北端の牛乳が汚染される不安を訴える。壇上にあがった彼らの顔は皆紅潮していた。最後は絶対反対のシュプレヒコールで、解散となった。

立松=反対運動といっても、「ゴミ処分場予定地のそばにダムがあるから」というだけの理由ならインパクトが弱いね。大切なのは住民運動ですよ。こちらでは住民運動が凄いですから。

筆者=きもちだけは焦っているんですが。頼みは、道や稚内の行政の断固たる拒否なんです。

立松=誰かがやってくれるからでなくて、あなたの持っているペンで、訴えることができるでしょ。

筆者=・・・

ゴミリサイクルは緊急の課題

庄崎=人間の出すゴミを何とかしなければね。埋め立てしても満杯になれば又、次に穴掘って作らねばならないでしょ。燃やせば有害物がでて、環境汚染につながるし。

立松=そうね。この地球で一番地球を痛めつけているのが、人間たちですよ。現在の地球人口が56億人でしょ。中国などの発展途上国は爆発的に増えているから。このままゆけば、2020年には、85億人になり、5人にひとりは中国人ということになりかねない。

ゴミ処分場予定地人間という生物が地球上にあふれかえって、確実に食料不足の時代がくる。開発できる地域が限られているからね。しかし、いまのところ人口増を止める手だてが無い。当然、ゴミも増える一方で、皆、いかにゴミを出さない暮らしをするか。ゴミリサイクル問題は待ったなしの緊急課題ですよ。木材にしても、日本では、自国の木を切らないで、安い外洋材を輸入しているし、後進国の焼き畑農業などは、自然破壊の最たるものに、なっているでしょ。それと、秋田などのハタハタが磯焼けで獲れなくなっている。山の木を切りすぎて水が変わってしまったんだね。それで、魚が卵を産みにくい。あれは杉の木ばかりを植えたからだね。杉の木を植えたのはまちがいだったね。北海道もね、針葉樹のカラマツばかり植えたでしょ。失敗だったねえ。ナラなどの広葉樹を植えなければね。土に保水力がなくなって雨が降ってもすぐに海に流れるからね。

庄崎=先生がひいきにしておられる知床は、(注・和平さんは知床に通いつめ、山小屋を所有、和平さんを慕う大勢の地元民と密度の濃い交流が続いていた)森林が豊かでしょ。だから魚が捕れるんですね。サハリンでも、あんなに木を切ってしまったら、今に魚が捕れなくなるんではないかと、心配しているんですよ。

山内=本当にね。野鳥が安心して暮らせる環境でない日本は、決して豊かだとは思えないですよ。

立松=水と酸素がある地球が誕生したのが、46億年前です。命あるものは、いつか必ず滅びる運命にある。地球だって同じです。山河、大地、海を大切にする事が、人類の未来につながると、これだけは確信をもっていえます。

座談会を終えて

「実は息子がね、北海道の大学院で学んだのだけれど、農業をはじめたいといいだして・・・。親としてできるだけのことは協力してあげたいと思っている」と、親の心情を吐露された和平さん。講演会を終えてからの座談会とあって、和平さんはほっとされたのか、弁舌なめらかだった。山内、吉田の白鳥おじさんたちや庄崎事務局長と、その仲間たちも浮かれたように饒舌だった。

私は、白鳥を軸に和平さんとの距離が一気に縮まったような確かな感触をつかんだ。流行作家というのに、和平さんはえらぶらない気さくな方だった。特に住民運動を啓発するには、「ペンの力を」と、助言、背中を押してくれた和平さん。そのひと言が、わたしにとって、かけがえのないおくりものだった。稚内沼川会館での「ごみ処分場反対集会」は、道内紙、全国紙にも報道された。

私も、「月刊道北」に、和平さんを囲んでの座談会と、反対集会記事をアップすることができた。住民の建設反対運動が功をなしたのか、「稚内ごみ処分場計画」は、S工業が断念、市民の水がめは守られたのである。北海道の知床が第二の故郷といってはばからなかった和平さんは、当時、知床の知布泊に毘沙門堂建立の準備を進めていた。和平さんの山小屋周辺は、元開拓地で集落があり、小学校や神社もあったという。幾年も過ぎ、住む人が少なくなり、神社も消えてしまった。寄る辺のなくなった地元の人々の懇願により、1999年、毘沙門堂は建立された。和平さんの協力者らが勧進元となり実現した。以後毎年、7月の第1日曜日には、地元の人々を交えての交流が続けられていたのである。

早すぎる死を悼んで

テレビ朝日のニュースステーション「こころと感動の旅」にレポーターとして出演していた和平さん。あの独特な声で、「自然っていいもんですね!」に、すっかりとりこになってしまった。講演会会場で、丸文字ぎみの署名本も買い求めた。

和平さんの著書には、道内を舞台に描いたエッセイが数々あり、北海道人として、特に親しみ深いものばかりだった。北海道の大地、海、空を撮し、著書にその写真を挿入している。愛機はニコンだった。砂漠のパリ・ダカール・レースにも斜里の友人を誘って出場した。旅から旅へ憑かれたように駆け廻りながら、走り続けた一生だった。晩年には次々に親しい人を失い、やがて自分もそれに加わるのだと、確信を持って書いていた。お若いのに、どうしてだろうと、かねがね不思議に思っていた矢先だった。世界を駆けめぐって病気とは全く無縁だったはずだから。

「下の公園で寝ています」のあとがきに、「私自身の死の準備のために書いてきたと思えた」と結んでいる。2002年のことだった。同年には実父とも死に別れ、気弱になっていたのか、それはまるで自身の死期を悟っているかのような記述であった。

2009年12月には、立松和平全小説全30巻が勉誠出版より刊行され始めた。その矢先わずか2カ月後の2010年2月8日、全集の出来上がるのをまっていたかのように亡くなったのである。62歳だった。全著書は、300冊以上にも上る。全集を多くの人々への形見として残し、和平さんは天上へ旅立っていってしまった。生きて再び会える時が来るとしたならば、私は、一番先に楽屋裏を訪れ、「座談会のお礼」を伝えよう。そして、この空知での白鳥や宮島沼の現状を語るに違いない。地球の温暖化により、絶滅寸前だったマガンの国内での越冬数が15万羽以上になったこと。道内では未だに鉛中毒になり死ぬ野鳥たちが多く、今後は、鉛弾所持も禁止となること。渡りの時期には、昔も今も、変わらずハクチョウ軍団がクワオ、クワオと鳴きながら、次なる季節の到来を告げに来ることなどを。

 

 

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