和暦と西暦がごっちゃになってきましたが、2021年(令和3年)は年女で、誕生日が来ると48歳になります。これだけ生きていると身体のあちこちにガタが出てくるかと思いきや、年1回の職場の健康診断では全ての項目が正常値のど真ん中にあります。山に登っていない冬の間もスキーやスノーボードをしているので、体力も付いてきて、今が一番調子がいいと感じています。
20代の頃はかなりの不摂生で、昼夜逆転した生活を送っていました。太陽が出ている時間帯は屋内で過ごし、夜になると外食をしたり、大量のお酒を飲んだりして、夜中はずっとパソコンに向かうような生活をしていました。小さい頃から健康(丈夫)だけが取り柄だったのに、30歳を過ぎると身体の調子が悪いと感じるようになりました。
<シュタイナーの人生設計>によると、ドイツの思想家「ルドルフ・シュタイナー」という人物は、人生の流れを7年サイクルで考えたそうです。過去の自分に起こった出来事や当時の状況を当てはめてみると、ピッタリ符合するところがありました。きっかけは本当に些細なことだったと思いますが、その後の人生や考え方が大きく変わったタイミングだと思います。
- 誕生から7歳まで・・・自分を世界に開き、周囲の世界を反映する時期
- 7歳から14歳まで・・・世界のいろんなことに、興味を抱く時期
- 14歳から21歳まで・・・自立に向かい、判断力を形成する時期
- 21歳から28歳まで・・・希望に満ちて溌剌としているが、自意識過剰にもなる時期
- 28歳から35歳まで・・・理知的に自己を吟味する時期
- 35歳から42歳まで・・・現実的に自分の本当の価値を探求していく時期
- 42歳から49歳まで・・・人生の本当のテーマを考える時期
- 49歳から56歳まで・・・そのテーマを実現する方法を考える時期
- 56歳から63歳まで・・・そのテーマを実行する時期
- それ以降・・・・・・・すべての課題から開放されて、自由に生きる時期
父の死
父が亡くなったのは2009年8月でした。父は40代後半で糖尿病と宣告されていたと思いますが、若い頃から脂っこいものや甘いものが好きで、病気を宣告されてからも食べるものをセーブしているようには見えなかったですが、いい大人に周りがとやかく言っても、喧嘩になってお互いに気分が悪くなるだけだし、自分で買い物に行けるうちは好きなようにしていたと思います。
まだ62歳という若さでしたが、糖尿病からくるあらゆる合併症は、長い年月をかけながら、ゆっくりと体を蝕んでいき、亡くなる1年前には80歳過ぎに見えるほど衰弱していました。
若い頃からエンジンのついた乗り物が好きで、車が大好きでした。一度走った道は全て覚えていて、暇さえあれば、母と一緒にあちこちに出かけていましたが、車から降りて辺りを散策するということはほとんどなかったように思います。還暦のお祝いをした時には、すでに杖なしでは歩けない状態で、仕事もまともに出来なくなっていました。
当時の記憶はすでに曖昧になってきましたが、最期の1年間は、自分でトイレに行くこともできなくなり、入退院を繰り返し、貯蓄のほとんどは医療費に消えていきました。
私は昔から父が苦手で、何かお願いをするときも母を通して話しをするような可愛げのない娘でしたが、それは自立してからもあまり変わらなくて、入院中にお見舞いに行くこともほとんどなかったです。母がSOSを出した時だけ、見に行くといった感じでした。
父は亡くなる少し前に「死にたくない」と言いました。
それならば、もっと早い段階から、自分の体をいたわり、元気で長生きするための努力をして欲しかったと思いました。先天性の糖尿病ではなかったので、生活習慣を改善すれば病気の進行を抑えられたと思います。
人生の残り時間
父が亡くなった時、私は35歳でしたが、自分の人生の残り時間について真剣に考えるようになりました。父のDNAを受け継いでいるので、私も父に似た面が所々あります。自分がこの先、いつ病気になったり、事故に遭ったりするかはわからないけれど、もし、明日死んだとしても、それまでの人生に悔いが残らないように毎日を大切に生きていこうと思い、父が歩けなくなった60歳までの目標を立てるようになりました。
やりたいことをやり、見たいものを見て、自分に残された時間を大切にし、最期の日まで自分の意志と足で歩くこと。
人との繋がりを大切にして、自分を必要としてくれる人には出来るだけのことをして、少しでもマシな人間になりたいと思いました。
ちょうどその年に登山に連れていってもらい、翌年から徐々に山にハマっていくのですが、山頂を目指しながら色々な山道をトボトボ歩くことで、今までぼんやり感じていたことがスッキリと考えられるようになりました。
必要最低限の装備を背負い、自分の足で歩き、そして、人様に迷惑を掛けずに下山して、家まで帰ること。
ただそれだけのことですが、思考がシンプルになり、目標を達成するまでのプロセスを具体的に考えられるようになりました。
当時立てた目標はざっくりとしたものでしたが、今ではそれが少しずつ変化しながらも、だんだん明確になってきたように思います。
ちょうど「山ガール」というワードが流行していた時期で、最初はベテランの後ろを付いていくだけの他力本願なお気楽スタイルでしたが、3年ほど経った頃には、自分の行きたい山を選んで、ソロで歩くようになり、その後の自分のライフスタイルが大きく変わっていきました。
今考えると、この年は私の人生の中で、ターニングポイントであり、父は私にとても大切なことを教えてくれたのだと思います。
目標を失った時
42歳になる2015年は、とても大変な1年でした。誕生日を迎えるまでに過去の行いを清算するような出来事が起こり、良い事も悪い事もまとめてやってきた感じでした。
患っていた子宮筋腫の手術をしたり、目標にしていたイベントに選出されたりと、めまぐるしかったと思います。
そして、誕生日を迎える頃、喪中欠礼ハガキが届きました。当時、facebookに投稿した内容をそのまま載せておきます。
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山の素晴らしさを教えてくれたご夫婦(ご主人)から、喪中欠礼のハガキが届きました。そこには10日ほど前に奥様が亡くなったとありました。
奥様はパソコン教室に習いに来てくれていた生徒さんでした。趣味の登山の話を沢山してくれ、興味を持った私を雨竜沼に連れて行ってくれたのが、2009年のことでした。
晩秋で、朝から曇天でした。花もなく、雨にも打たれ、正直登山の何がいいのか分かりませんでした。
75歳を過ぎてもバリバリ働くご主人は、年齢を感じさせないほどの健脚でした。ご主人についていこうと勢いだけで登っていく私。それを気にせずマイペースを貫く奥様。
楽しそうに色んな山の話をしてくれて、展望台では便利な道具を使ってお湯を沸かし始め、カップラーメンを作ってくれました。こんなに美味しいカップラーメンは初めてだったかもしれません。
ご夫婦はその時に私が撮った写真をとても喜んでくれて、スクリーンセーバーにして、いつも眺めていました。お友達が写真を褒めてくれると嬉しそうに話していました。
翌年、ご主人は退職し、故郷の栃木に帰りました。「栃木に来たら、山を案内するよ」と言ってくれましたが、結局、二度目の登山をすることはありませんでした。
それからというもの、気まぐれで出すぶっきらぼうな年賀状には、メッセージも書かずに、その年に登った山の写真を沢山並べるようになりました。
出逢いはちょうどいいタイミングでやってきます。あの時、山に登っていなければ、今の私はもっと違っていたと思います。0と1の無機質で小さな世界から抜けられず、心を病んでいたかもしれません。
登山はとてもシンプルです。山に登って下りるだけ。しかし、ピークまでには色んな困難があり、それはまるで人生の縮図のようで、乗り越えた時は何かを成し遂げた時と同じような達成感と高揚感に包まれます。
そう遠くない将来、キリマンジャロに登る計画があります。無事に帰ってきたら、今まで登った山の記録をまとめた本を作り、ご夫婦に贈ることを目標にしていました。具体的な目標を立てれば、具体的な計画を立てられ、具体的に動けるようになります。
予定よりも3年前倒しで行けそうな目処が立ってきた矢先の訃報だったので、かなりショックを受けました。
奥様は73歳になっていたようです。ご主人はもっと年上なので、時間はあまり残っていないことは感じていましたが、別れがこんなにもあっけないなんて。
会いたい人に会い、話したい人と話し、魂が求めるものを諦めず、自分と大切な人を幸せにしてください。それ以外は二の次でもいいと思うのです。
自然が作り出した素晴らしい世界を教えてくれ、人生を変えるきっかけをくれたご夫婦に感謝しています。
あなたの人生はどんな山でしたか?
安らかに眠って下さい。
ありがとう。
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